ごめんなちゃい。

前回のブログは、いつもより反応してくださる人がいた。

びっくり。とか、ショックとか。

遠隔や直接でも、私が想像している以上にみなさんには効果があったようで、喜んでもらって、頼りにしてくれていることがわかった。私はそれにかなりびっくりしている。

 

昔から、私は私が嫌いでたまらなかった。

それは、自分がすごく嫌な意識を持っていて、人に嫌なことをしてきたから。

自分の存在が何かを犠牲にし、苦しめるから。

嫌いだから変わりたくて、ここまで自分を変えてきた。

お客さんはそんな私に協力をしてくれた。

本当に助けてもらえてありがたかった。

 

私は、自分もだけど、人の苦しみを取り除きたかった。

そのために、お客さん一人一人の苦しみの原因を指摘し、解放して整えていく。

それが肉体面でも精神面でも共通してやっているリリーシングである。

でもなかなか簡単にはいかない。苦しみは続く。消し去れなくてやりきれない思いをし続けてきた。

 

肉体がつらくて痛い人に、なんでこの人がこんなに痛い思いをしないといけないんだ!

と、泣きながらリリーシングをやったこともある。

 

本人が気づかずにやっていたりもっていたりする、他人や自分に苦しみを与える要因を捨ててもらうために言葉で指摘する。

それは、本人が見たくないもの。言われたくないこと。な場合が多い。

でも、あえてそれを言わなければならない。

それは、とても嫌な役割だ。

私はその人を責めているのではない。自分の腹いせでもない。

本人と周りの人の幸せのためなのだ。

もちろん素直に聞き入れてくれる人も沢山いた。

でも、理解してもらえない人もいた。

「私のことそんな風に思っているんですね!」

とか

「みんなの苦しみを取り除きたいというけど、僕はあなたに苦しめられている」

とか。

伝わらない人は本当に伝わらない。

逆に私を責めてくる。いたし方がない現象だ。

そのやるせない悲しみも味わった。

 

「露野さんは人の不幸を望んでる。というとんでもない思いが出てきた」と言ってくれた人もいた。

私は全くそんなつもりはない。

でも、人の苦しみを取り除く仕事をして生活しているのは確かである。

苦しんでいる人の存在で私は生活費を稼いでいる。

この現象を、そう捉えられることもできるわけだ。

色んな捉え方があるということを教わった。

 

解釈による現実の齟齬。

人はみんな違うからこういう事態がおこる。

 

閉業は8月3日に決めた。

それまで私はみなさんのサポートを全力でやり続ける。

みんな明るく楽しく楽に幸せになあ~れ!

 

自分でこの仕事をはじめ、それにみなさんに協力をしてもらって巻き込んだ。

最後も自分で終わらせる。

中途半端になって申し訳ありません。

謝るしかない。

ごめんちゃいちゃい。ゆるしてちょんまげ。

 

遠隔中のみなさま、今後のためにもたくさん捨てておきました。

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